京都・島原・高砂太夫

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島原のはじまり

寛永14年(1637)に島原の乱がおこったあとの寛永16年(1641) 京、六条三筋町の花街が朱雀野に移されることとなり、「曲輪」にうつるそのありさまが 取り乱して慌てていて、まるで島原の乱のようだということで島原と名づけられたようどす。
藤本箕山の「色道大鏡」には「寛永十八年、又六条より今の新屋敷に遷さる、此時より此処を島原ともいふ、或云、肥前国島原陣落去の砌として、郭の構一郭一門にして、四方掻揚の堀なるが、有馬の城に似たりとて、かくいひし、ときけど、是はおぼろげのたとへとや申べからん、抑、島原といふ心は、人皇七十四代鳥羽院の御宇に、島千歳、和歌前といひしは、是本朝遊女の根元也、此島といふ字を取て、此遊郭になづく、原とは広き心をいふ也、(毛詩十七、公劉篇、鄭言曰、広平曰レ原云々)又或説に、肥後国たはれ島といふ有、風流島と書く、又、六条宮の御撰の伊勢物語の真名本には、遊島とあり、彼是両様をもつてみれば、兎角たはるゝ境地なれば、此島の流にしたがひて、島原と名づけ侍る物ならし、後撰集第十五に、朝綱朝臣、まめなれとあだ名はたちぬたはれじま よるしら浪をぬれぎぬにして 後撰集第十九、よみ人しらず、なにしおはゞあだにぞおもふたはれじま 浪のぬれぎぬ幾夜着つらん 所詮、此地を島原といふも、耳にたちてきこゆ、落陽の西南にあたれば、坤郭といはんに、何ぞ難かるべき」と書いてあります。

太夫(こったい)さん

嶋原の傾城の最高位で 正五位の官位で御所に参内して帝にお目にかかれる身分にあり、10万石の大名の格式どした。
春に常照寺で花供養のある吉野太夫も、歌舞伎「廓文章」の大阪新町の夕霧太夫も、元は嶋原の太夫さんどした。
嶋原太夫には茶の湯、琴、舞、常磐津、和歌など当時の最高の教養を修めることが許されていました。
書かれた文字の様子は麗しく、その水茎は当時の宮中の女性たちにも影響を及ぼしたそうです。

江戸のころ

京島原の太夫に、江戸吉原の張り持たせ、長崎丸山の衣装着せ、大阪新町の揚屋にてあそびたし と巷で評判でした。
元禄の頃は 島原を舞台にした歌舞伎狂言や人形浄瑠璃が上方で盛んに上演されてました。
この遊宴の地、島原は正に京文化の中心にあり和歌俳諧等の文芸も盛んで島原俳壇が形成され賑わいました。
井原西鶴が活躍したのも この頃で「好色一代男」という本には、当時の様子が生き生きと書かれています。
幕末には勤皇の志士も佐幕派の浪士も夜な夜な混ざって島原で遊んではりました。
なにしろ物騒なことで、当時の揚屋の角屋さんには、新選組の刀傷が柱に深く残っています。

高橋太夫さん

井原西鶴の好色一代男のお話どすけど。「島原の廓に高橋という大夫がいた。生まれながら太夫の位がそなわり、顔に愛嬌があり目がぱっちりとして、そのうえ男心をそそる魅力があったから、この大夫に思いをかけぬものはなかった。その高橋がある初雪の朝、揚屋喜右衛門の弐階座敷で、世之介を正客にしたお茶会を催したことがあった。行ってみると、床の間の掛物には何も書いてない白紙が、ちゃんと表具をして掛けてある。何か趣向のありそうな茶席、水もわざわざ宇治から汲んできたものを濾して用いるという心の入れようであったが、高橋がみずから墨をすって、客たちにこの雪見の心持を俳句にと所望して、掛け軸の白紙にめいめいの句をしたためさせたのは、ことに興深いことであった。花活けに生け花を一輪も挿してないのが客を不思議がらせたが、考えてみれば、きょうは太夫たちの集う茶会だから、これ以上の花はないという趣向である。「高橋のいでたちは、紅梅色の下着に、三番叟の刺繍をした白繻子を着、その上に萌黄色の薄衣を打ち掛けて、髪は稚児髷に結い、金の元結でむすんである。その姿は天女の妹とでも言いたいくらい。お茶をたてる動作の見事さは、千利休の生まれ変わりかと思われた。さて、お茶のあとはくつろいで酒になったが、いつもと違うおもしろさに盃を重ねた世之介は、酔いのまぎれに紙入れの金貨銀貨をざらりとあけて両手にすくい、「太夫、これをやろう。受け取れ」と言った。」まるで賑やかに三味の音が聴こえてくるようどすなあ

八千代太夫さん

慶安2年(1649年)15歳で太夫にならはりました。藤本箕山の「色道大鏡」の扶桑列女伝に十九人の一世を風靡した美女の中でも特に天下に知れ渡っていたとあり、その美しい姿は、当時、八千代流と呼ばれた筆跡の「わすればや そでひきとめてありあけに 又よといひし人のおもかげ」という和歌とともに、角屋保存会さんの保存する「寛文美人図」掛け軸のなかにあります。

島原には 昔から 七不思議というものがあるんどす

入口を出口と言い、どう(堂)もないのに堂筋と言う。下へ行くのを上之町、上へ行くのを下之町、橋もないのに端女郎、社もないのに天神さん 語りもせんのに太夫さん

地唄 出口の柳

  詞 宇治加賀椽  曲 杵屋長五郎
奉るよ、奈良の都の八重桜、今日九重に浮かれ来て、二度の勤めを島原の、出口の柳振り分けて恋と義理との二重帯、結ぶ契りは仇し野の、露の憂き身を誰故に、世渡る船のかひもなや、寄る辺定めぬ海士小舟、岸に離れて便りなや、島隠れ行く磯千鳥。忍び音に泣く憂き涙、顔が見たさに又ここへ、木辻の里の朝込みに、菜種や芥子の花の色、移りにけりな徒に、わが身はこれなうこの姿、つれなき命長らへて、またこの頃や偲ばれん、忍につらき目関笠、深き思ひぞせつなけれ。
江戸時代の宝永5年(1708年)に竹本座で絵師狩野元信の150年忌にあたる年に上演された近松門左衛門の浄瑠璃「傾城反魂香」。女主人公の傾城遠山が、島原に移ったときの心情を唄った 出口の柳 は入り口にあるのに「出口」という名前なんどす。
この傾城遠山は本当は絵師土佐将監の娘で、嶋原に移った時には遣手に身をやつしてはりました。これが奇縁で。別れていた恋人絵師狩野元信と巡り会い、つかの間一緒に住むという話なんどすけど。ほんまは、もう死んではって死んだ者の魂を呼び戻す香を焚いて暮らすんどす。それで襖に熊野三山の画を描いてもろて一緒に絵の中の熊野詣でに出かけるんどすけども、その姿が逆さまに後ろ向きに歩くのを見て、あの世の人や、とおもて元信は遠山が死者であることを悟り、悲しむというお話なんどす。
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